佐藤薫子のマナーコラム



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Kaoruko SATO
プロトコールジャパン㈱創始者

  • 1984年マナーズ&コミュニケーション設立。サロンを主宰するとともに官公庁・企業・学校において
  • 講演、企画提案、コンサルタントにあたる。アメリカ在住時も駐在日本人へのプロトコール指導、
  • NY読売新聞でコラムを連載する。
  • 帰国後は現顧問でプロトコールの第一人者リヒターの思いを忠実に日本で広めるべく活動を続ける。
  • 80年代から日本でプロトコールを伝え続けている草分け。
  • 2001年『Manners Book(インターナショナル エチケット&おもてなしのテーブル)』出版
  • (2004年第2版)。2007年『テーブルコーディネート&おもてなし事典(プロトコール流)』出版
  • 2013年『はじめての国際社交学プロトコール流』出版






佐藤薫子の暮らしに生かす
目からウロコマナー編」

第3回  大学入学、桜から銀杏の季節へ?

「東京大学が9月入学への移行の検討を開始」
 長い間、9月入学はグローバル化・競争力向上の「切り札」といわれ、その実現に大きな期待が寄せられながらも、就職時期のずれなど問題も多くあるとされてきましたが、大きな一歩となるのでしょうか。

このニュースを目にした時、ふとある人物に思いを馳せました。遥か昔、明治の時代の9月入学の経験者、津田梅子さんです。
海外で学びつつも、帰国しての日本の受け皿の底の浅さに、絶望して、再度渡米し学んでいます。明治15年に海外の大学を卒業することの努力は現在とでは比べようがありません。

「ひるまない明治女性、ここに」

津田梅子の座右の銘は“高い志と熱意を持ち、少数だけでなく、より多くの人々との共感を持てれば、どんなに弱い者でも事を成し遂げることができるでしょう。”
正にこの考え方は民主主義の原点のはずです。彼女のこの言葉はアメリカ留学中に、体感の中で学びとったものではないかと私は想像します。

今の津田塾大学は、1900(明治33)年津田梅子によって創立された「女子英学塾」が前身です。津田梅子は、大山捨松と他3名の女子留学生とともに、1871(明治4)年、岩倉具視大使一行の欧米視察団に同行し、米国留学の途に着き、その後、1882(明治15)年に帰国するまでの11年間アメリカ合衆国で教育を受け、帰国時は満17歳でした。

帰国後、梅子はアメリカと比べ日本での女性の地位の低さを強く感じ、早い時期から「男性の真の協力者にして対等の地位に立つ」自立した女性を育成する学校の設立を志し実行しました。 女子教育に生涯を捧げた情熱の人として、1915年、日本の女子教育に対する貢献を称えられ勲六等宝冠章受章の栄を浴しました。


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明治の開化期をイメージ
したテーブルセッティング





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